なぜわたしがこんなにも “あい” “いのち” “ひかり” “いのり” ということばをつかうのか
【 なぜわたしがこんなにも
“あい” “いのち” “ひかり” “いのり”
ということばをつかうのか 】
それを 伝えたい
夜中の2時に寝て 3時半に起きて
いまは バスで葉山に向かっているところ
目はぱっちり*
長めになりそうかな。
*
いまのこたえは ふたつ🌟🌟
🌟ひとつめ
「 真っ暗な世界があるから 」
ただ ただ 静かで 真っ暗な世界があって
苦しい 悲しい そんな感情があふれるときに、
「ドクン 」 怒りと悲しみとともに泣きじゃくって疲れ果てたときに心臓の音が聴こえて生きているのを感じたり、
やっと人に頼ることができてだれかの”あい” ある言葉にふるえたり、
どうしようもなくなって飛び出した真冬の外で夜空にふと流れ星が流れたときの“ひかり” にわけもなく涙したり、
きっと色んなことを乗りこえてきただろう人が
“いのる”ようにただそこに在るだけのように生き様を表現するアーティストたちがいたりして、
それは 感動する🌌
時がとまり わたしと世界の境目がなくなる
胸が熱くなって あぁ、生きてる
この瞬間は奇跡だ*
夜空に手を伸ばして地球の外にあるいろんな星に感謝したくなる
木のみどり や
花のきいろや
雲のしろや
空や海のあおに魅せられて
大自然は強く しなやかに 変化しながらたたずんでいることに 心から美しいと思う
それは 人のからだもいのちも そう 。
大学受験に落ちて浪人した時から特に6年間、
わたしは自己否定から拒食症と過食症を繰り返す。だれにも言えずにただ自分の身体をみにくいと思い太ることが怖くて食べたものをぜんぶはいていた。
そしていきなり甘いものが食べたくなって夜中にコンビニに行ってたくさん甘いものを買って食べては泣きながらはく。
それが終わると世界には食べるものがなくていのちを落とす人たちがたくさんいるのにわたしは何をやっているんだろうと自分を責める。
でもある日、
わたしが生きていることにすごく感謝して愛してくれた人がいて、
その人が用意してくれたお風呂にゆっくり入って全身の力が抜けて、
はだかのままドライヤーで髪の毛を乾かしていたとき、
「 あぁ、
わたしのからだは 大自然とおなじで 美しい* 」
心から そうおもった🌱
もちろん 思考はよみがえるからそのあとも太るのが怖くて吐きたくなったりしたこともあったしはいたこともあった。
でも たしかにじぶんのからだが愛おしくなった。
いまわたしは じぶんを愛でる時間をつくっている
へやを真っ暗にして
愛する人たちのキャンドルを灯して
はだかで自分のからだにただ触れる
すきな音楽をかけて舞う
夜には外に出て 走ったり踊ったりする
星や月がずっと見ててくれる感じがうれしい
それはとても 感動する すきな時間 🌔
真っ暗な世界から
感動が生まれて
そんな経験を重ねて重ねて真実みたいな揺るがないものだけが光ってきている
わたしのそれを表すことばが
“あい” “いのち” “ひかり” “いのり”
*
🌟ふたつめ
「 わたしは それら*になりたいから 」
わたしは小さい頃ふと庭を見つめていたとき、
この世界はなんなんだろう。
この目の前にある景色はなんなんだろう。
この意識はどういうことだろう。
からだはなんで大きくなるんだろう。
いま亡くなっている人たちが世界にいるのにわたしは生きていられる環境にいるのはなんでだろう。
みんな 生きていることがあたり前なんだろうか
こんなこと気にしていたらだめなんだろうか
この世界にはわたししかいないんだろうか
そのときわたしの世界に特に色はなかった。
あぁ、わたしが病気になって死んだら
みんないのちが奇跡だとわかるかな。
わたしの余命があと1ヶ月になったら
みんなより生きようと思うかな。
それならわたしは死んでもいいから
この世界の人たちのいのちを生かしたい。
そんな偉そうなことを考えていた。
自分は何様なんだろうと思う。
きっと、それだけ生と死の間にはとてつもない
”情熱” みたいなものがあるのを感じていたのかもしれない。
そして同時に
すごくこの世界や多くの人から愛されたかったし
世界や多くの人を愛したかったんだと思う。
さいきん 自分の中から制限のない
《 純愛 》が溢れてくる❄️
目の前のいのちに愛が溢れてくる。
目の前の人が生きている奇跡に感謝が溢れてくる。
みんなのいのちがわたしを生かしてくれている。
星たちはずっとずっと見守ってくれている。
愛する人と過ごす美しい瞬間に涙が出る。
愛する人でわたしはいっぱいになる。
そこには感情も記憶もあるから
ずっとそうではいられないし
また 世界が真っ暗になるときがある。
ゆるして
ゆるして
ゆるして
ただ 見つめる
そしてまた この世界とわたしが響き合う
“あい” “いのち” “ひかり” “いのり”
言葉にすると
抽象的で分かりにくい時もあるけれど
わたしに刻まれた感情と記憶によって削ぎ落とされていった真実が込められている。
《 3月7日 新月 》
渡辺類子と仲間たちに見守られて
さらけだして舞った
*あぁ わたしって美しいんだ *
わたしの舞を見たあとに
たまちゃんが自分は美しいと感じたことを伝えてくれた。
わたしは みんなのいのちを舞っていて
わたしは みんなのあいを舞っていて
わたしは みんなのひかりを舞っていて
わたしは みんなをいのって舞っていて
嬉しくていっぱい涙が出て 歓んだ💧*
《 3月11日 石巻にて 》
“わたしは 目の前のいのちに対して
自分のいのちが尽きるとしても舞い続ける ”
それがわたしから湧いてきた
洋輔と共に
いま生きているいのちを響かせ合って
アートすることがどれだけしあわせなのか
そしていまは亡くなったけれど
確かに生きているいのちから
どれだけ応援されているのか
見守られているのか
愛されているのか
それを感じた。
《 3月21日 満月 》
真っ暗になった。
ひとりだった。
それでも 真実は湧いてきた*
わたしたちは “あい”
わたしたちは “いのち”
わたしたちは “ひかり”
わたしたちは “いのり”
自由にいのちをさらけ出していい
思いっきり感情を表現していい
葛藤しまくっていい
何かが出来なくていい
素直になれなくていい
なにかを押し付けてしまってもいい
わたしは知らないことだらけで下手くそだから
伝えたいことはまだまだ多くの人には伝わらないかもしれない。
でも いま 伝えたい
**すべてのいのちは うつくしい**
わたしは生きていのちを伝えていきたい
わたしはそうありたい
わたしはみんなのいのちのひかりで生きています
最後まで読んでくださった方
本当にありがとうございます。
もし良ければ
感じたことを伝えてもらえたら嬉しいです☺️
もうじき 目的地に着く**
いのち舞う きむらのりこ